まったく個人的な体験、とされる「痛み」。
誰もが同じ痛みとして共有することはできない、とされる「痛み」。
このことは痛みの患者さんにとっても、また治療する側にとっても、双方に重たい問題を突きつけている。
「自分の痛みを分かってもらえない」、あるいは「原因を特定してもらえない」という患者さんの苦しみには、計り知れないものがあるだろう。これが痛みを蔓延させる一因となり、痛み治療に対する不満となって現れる。痛みを抱える患者さんは、きちんと対応してくれる医者を求めてさまよう。その心情は察するに余りある。
一方、治療する側にも迷いがある。共有できない痛みをどう評価し測定するかさえ、医療の間で共有されているとは言い難いからだ。治療家も、ともすると自分の概念を患者さんに押し付ける。あるいは、その概念の中に押し込んでしまいがちになる。
2004年のことである。ある女性の患� ��さんとの出会いがあった。2008年に、その体験を記事にした。(「私の考えるケア」① ある患者さんとのエピソード)
復温レベル1の暖かい体温
その患者さんは、4年ほど前に他県から来院した33歳の独身の女性である。慢性腰痛のためにあらゆる治療を経験してきた人であったが、30歳のときに鍼治療を受けた。その時に腰にうった一本の鍼がとても痛かったそうだ。
それ以来、鍼を刺されたところが痛み出し、長時間の立位や重いものを持つのが困難になってきた。彼女は本屋さんの店員さんだったが、結局仕事も辞めざるを得なくなり家に引っ込むことになったそうだ。それ以来、今度はその鍼の痕の痛みを治すためにジプシーを続けて3年経ったという患者さんである。
運動分析をすると制限されている動きがある。しかし、彼女は全方向の動きで鍼を刺されたところが� ��むと訴える。「ここです。ここ! 針を刺した痕が残っていませんか?」と食い下がる。
「3年前に刺した痕が残っているわけがないでしょう! それより動きの制限されているところを調整してみましょう。それで痛みがどう変化するか見てみましょう」。
数回も治療すると、制限された動きもなくなりスムーズに動けるようになったが、彼女はやはり全方向の動きで痛いと訴える。変化はないと言う。「鍼を刺した痕がないですか? ここのところなんです」。
私は、 HESの嘔吐であれば獣医に犬を取るべきですか?
鍼をした痕という部位にもズレがある。慢性的になれば、多シナプスになるので漠然とした部位になるのはしょうがないことだろう。私としては痛みの可塑的な変化が起きている可能性を考えて、運動と行動の認知療法を取り入れてみることにした。
痛みと治療の情報を与えて、在宅でのエクササイズを指導したのだが、結局「痛くて運動は出来なかった」らしい。では段階的に行おうと、最も簡単な動きのプログラムから始めることにしたのだが、それでも痛くてできない、と言う。最終的に重力負荷を軽減させて、プールでの運動を指導した。
「痛いからといって家にじっとしているのは良くないよ」と励ましながら進めたつもりだったが、それ以来彼女はプツン と音信不通になった。。
それから4ヶ月も過ぎた頃、突然、彼女からの電話があった。「健康診断で眼底検査を受けたら、その光が強烈で目を開けられないんです。まぶしくて。診てもらえますか?」と言う治療依頼だった。窓の明かりもまぶしくてカーテンを閉めて暮らしているのだそうだ。
そんなことよりも、私には腰痛のその後が気になったので「ところで、腰の方はどうなったの?」と聞いたら、「腰は治ったんです」と言う。
「どうして治したの?」と聞いたら、「先生、信じられないでしょう」。
「本人が治ったと言うんだから信じますよ。どうしたの?」。
首の痛みとサイクリング
「実は近所の接骨院に行ったんです。そしたら見つけてくれたんです。鍼を打ったところを」。その接骨院の先生は「ここだ、ここ。これが鍼の刺した痕だ。これは少し長くかかるが、うちに最新の電気の器械があるので、毎日これを続ければ1ヶ月くらいで良くなると思うよ」、と言われたらしい。それで、彼女は毎日電気治療を続けた。
「そしたら、ホントに1ヶ月ほどで治りました」。
この患者さんの時ばかりは、いろいろ考えさせられた。私には最新の電気の治療器器はないが、身体機能についてはかなりきめ細かく対応したという自負はある。痛みの可塑性の問題についても情報を与え、運動や行動の認知を促す方法も正攻法で伝えたつもりだった。引っ込みがちな彼女を励ましながら、前に進める方法を伝えのである。結果的に、私が伝えたものは彼女の痛みに何の変化も与えることができなかった。ところが、その接骨院の先生は鍼の痕まで示したようだ。本当に痕を見つけたのか、何か意図するものがあってそう言ったのか、それは私には分からない。
ともかく、私は「そんなことは、あり得ない」と否定し続け、その接骨院の先生は鍼の痕まで示して彼女の言い分を認めたのである。そして、彼女の痛みを見事に消したのである。
私は、その患者さんとのエピソードを通して、「痛みを評価するための心得」を学んだ。
それは、患者さんの訴えは「すべて患者さんにとっての事実」として受け入れよう、というスタンスだった。
「そんなことは有り得ない」、「正しくない」、「間違いだ」などと、一切の評価をすることなく、「そのまま受け入れる」姿勢である。
患者さんは自分の状況や病状を一番よく知っているはずなのだ。
先ずは、その事実をそのまま受け入れよう。
「痛い」と言われれば痛いのだ。
痛みを評価するための第一歩は、そのまま受け入れることからはじめよう。
そう、強く思った。
患者さんの事実を否定しても何も生まれない。
「受け入れる」ことの大切さを思い知らされたのである。
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