東京大学精神科児童部デイケア研修医時代(1966〜)
私は1960年代の中頃から自閉症の人に出会い始めました。私が大学に行きましたのは遅く、30歳を過ぎてからです。新潟大学の医学部を卒業して、東京大学の精神科で研修医としてトレーニングを受けました。
当時、東京大学の精神科には、児童部デイケアというものがありました。就学前の児童が対象でしたが、実は学齢になったお子さんがたくさんいらっしゃいました。と申しますのは、当時は、就学猶予・就学免除という制度が残っていたからです。当時は、自閉症のお子さんは、御両親が非常に強い御意志を示されて、そして周囲のバックアップがあって、普通学級にお入りになるという方がごく一部いらっしゃっただけでした。今思うと、かなり高機能の方です。あとの方は殆どが就学猶予でした。そして児童学園というところ、または、このデイケアのようなところにお入りになるのですが、そのようなところは滅多にありませんでした。ですからデイケアに通っていらっしゃる方の多くも、学齢を迎えても学校にいらっしゃらず、引� ��続きデイケアにおいでになっていました。それでデイケアにはいつもたくさんの方が待機していらっしゃいました。そういう時代でした。お子さんが35歳から40歳、ないしはそれ以上になっていらっしゃる方々には、その頃の実感がおありだと思いますが、そうでない方にはおわかりになりにくいと思います。全員就学が可能になる前のことです。
大学病院は、治療はもちろんとても大事な使命ですが、学生を教育する、あるいは若い医者を訓練するという使命も持っています。そしてもう一つ研究という使命があります。ここが他の病院と違うところです。大学病院では、診療と教育と研究の3本柱のどれもゆるがせにはできません。ですから、デイケアにも、診療・治療と、そこに集まって来る若い医師を訓練するという使命と、そこで行なっていることの意義がどれくらいあるかということを検証する使命がありました。現在日本の各地に国立大学付属の養護学校がありますが、付属養護学校もそれに似た使命を持っています。本当に自分たちのしている教育が優れているかどうかを検証するという使命です。そういう研究的な側面として、自分たちの取り組みが本当に意義があ るかどうかを検証するために、当時の東京大学のデイケアでは、ダウン症の人と自閉症の人しかお受けしませんでした。両者がどのように違うのか、従ってどのように異なる治療教育を実践しなければならないのいうことを考えるためでした。
「情緒障害」
当時はまだ、自閉症は、親の誤った育児による心因反応、あるいは情緒障害であるという考えが世界中至るところにかなり根強くありました。日本にも本気でそのように考えている専門家がたくさんいたと思います。 60年代から70年代の初めまで、遅い人は70年代いっぱいそう思っていたのではないでしょうか。
聡明そうな表情をしている子どもが、呼びかけても視線を合わせない。振り返りもしない。親からはぐれて迷子になっても不安そうな顔もしない。毎日一生懸命育児をしている親に対して愛着行動が形成されない。
親の拒否的な態度―冷たい「冷蔵庫のような心」をもった親の養育によって、子どもは、本来最初に信頼感を抱くべき母親に対して心を閉ざしてしまう。それがすべての始まりである。心理学者や精神分析の領域の専門家たちはそう考えていました。
自閉症の子どもはとても美しい表情をして生まれて来る。首がすわり、寝返りをうち、はいはいをし、お座りをし、伝い歩きをし、独立歩行をする。運動発達は極めて順調である。あるい は普通の子ど もより早いこともある。言葉の発達は遅くても、一方で、道順を正確に覚えるとか、文字の記憶がよいとか、機械の操作は教えもしないのに覚えてしまうといった高い能力に思えるものをたくさん持っている。そういう子どもが、こんなはずはない。そういう考えが世界中でありました。なぜかというと、それまで自閉症の子どもに会って来なかったからです。
絶対受容
それで、治療教育者の多くは、拒否や攻撃をされたのだから、その裏返しの受容をすればよいと考えました。代表的な専門家は、シカゴ大学の教育心理学者ブルーノ =ベッテルハイムです。
彼は子どもを親から切り離し、施設に預かりました。チャイルドケアワーカーは、彼独特の方法で訓練を受け、子どもたちを「絶対受容」しました。よほどのことがない限り指示や命令はしない。子どもの要求を可能な限り受け容れる。そういう発想のいわば心理療法です。
そこまで徹底しないまでも、受容的プレイセラピーというものが世界中で広まっていました。脳性麻痺や知的障害の子どもに、目や耳の不自由な子どもに、受容という言葉を敢えて使うでしょうか。親が子どもを育てる時にそんな言葉を使うでしょうか。子どもを受容することは、治療者や教育者には当然のことですから、敢えて強調することはありません。自閉症の子どもにだけ、受容という言葉を使うのは、自閉症の原因が親の拒否や攻撃によるという誤解から始まっているのです。今も一部には生きているようですが、多くの人は敢えて使いません。それは反省のもとに立っているのです。
ベッテルハイムの「自閉症・うつろな砦」(みすず書房)は絶版になりました。基本的には親の間違った育児によるという姿勢が貫かれているからです。それはあるご家族の非常に強い抗議によるものだそうです。出版社の方は絶版ということにはずいぶん抵抗されたと聞きました。最終的にこういう時代もあったという証としての意義があるのではないかという出版社の意向がありましたが、結果としては絶版になりました。
行動療法
デイケアのスタッフは、東大に呼び集められる前に、それぞれいろいろなところで仕事をしていました。多くは、当時「受容的」心理治療でそれぞれの場で最善を尽くした人たちです。それぞれ熱心にその時代最善の策と思われることに取り組んでいたのですが、自分たちが納得できるような成果があげられない苛立ちと悲しみを持っていました。
世界でもそういった心理療法はだんだんなくなって来ていました。例えば精神分析治療の世界的なメッカであるアメリカのメニンガークリニックでも、世界のトップレベルの精神分析治療で最善の努力をしました。けれども 10年ほどの試みで、自分たちの方法は自閉症の子どもたちには有効ではない、という声明を出したのです。メニンガークリニックの人たちは非常にすぐれたセンスを持っていると思います。メニンガークリニックではその結果、治療方針を変えるか、自閉症部門を閉じるか、どちらかの選択を迫られ、内部で議論した結果、自閉症部門を閉じることにしました。彼らはいさぎよく撤退するのです。その宣言は私には潔く快く響きました。ある意味で、良心的な態度だと思います。
それに入れ替わるようにして、行動療法というものが出てきました。人間の文化的な行動は学習によって身につけるものだという考え方があります。ですから、人がどのようにそれぞれの文化を身につけて来たかということを細かく分析して、私たちが期待するようなものを少しずつ丹念に学習して行ってもらえば、自閉症を治すとまでは言わなくても、好ましい状態に援助することができる。こういう発想です。
行動療法には一部、好ましいことをした時にはご褒美をあげ、好ましくないことをした時には罰するという方法があります。それは、人は基本的にはそのようにして文化を身につけて来たという考え方に立っています。親の喜ぶことをした時には褒められたし、好ましくないことをしてしまった時には叱られた。それを応用しようという考え方です。
その後、一部の行動療法家たちは、好ましくないことをした時に罰することはせず、好ましいことをした時だけ激励するという方法を採用するようになりました。彼らは故意に間違ったことをしてしまうのではない。どうしてもそうなってしまうのに、それを罰するのはいかがなものかという考え方です。罰は与えず、ご褒美だけ与えるという方法で、好ましい行動をたくさん学習してもらおうとしたのです。みんな一生懸命に行動療法を勉強し、実践していました。
ブリティッシュ・コロンビア大学時代(1970〜71)
私は発達障害の人と一緒にいようと思っていました。当時は日本には児童精神科は本格的にはありませんでした。(今でも、あるようで実はありません。)日本の児童精神科医はみんな独学です。私も多少の独学をしましたが、本格的なトレーニングを受けたいと思いました。そしてどこに留学すればよいか、いろいろ聞いてみてもなかなかわかりません。先輩がいないのです。海外で勉強をして来たという人もいません。
どういう大学で、子どもの精神科に留学生を募集しているか。主にどういう方面のトレーニングをしているか。アメリカの雑誌を中心に、自分なりに調べました。" Journal of American Medical Association "(アメリカ医師会雑誌)という雑誌の巻末に、いつも案内広告が出ていました。どこの大学や病院でどういう訓練生や留学生を求めているか。待遇も出ていました。
それを見ておりまして、一つにはカナダのブリティッシュコロンビア大学がいいと思いました。なぜかというと、ここは世界一コミュニティケアが優れていると書いてあったからです。子どもはクリニックの中だけでは育てられない。慢性の問題を持った子どもたちは、コミュニティをあげていろいろな人の力の中で育てる。こういうことが、バンクーバを中心とした地域でモデルとしてなされているということです。それに魅力を感じました。
もう一つはニューヨークの、スラムとそうでない居住地の中間にある病院でした。両方の地域にサービスを供給し、大変成果をあげている。大学の医学部と連携していて、若い医者のとてもいい訓練ができる。こう書かれていたので魅力を感じました。
そのための留学生試験がありました。その試験にパスすれば、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアの 4ヶ国で、スーパーバイザーがいれば外国人でも医療行為が許されます。自ら医療行為をしながら勉強することができるのです。仲間と試験勉強をしました。幸い合格して、アプリケーションを出しましたら。希望した両方の病院から採用してもよいという通知が来ました。だたし、ニューヨークの病院の方は、アメリカでインターンをしていない人は採用できないということでした。私は大学卒業自体が皆さんより6年も遅れています。その後3年ほど訓練を受けていますから、またインターンからというのはちょっとと思いました。そんな単純な理由からブリティッシュコロンビア大学の方を選んだのです。
私はブリティッシュコロンビア大学病院のレジデントとなりました。実際はアパートに住んでいましたが、レジデントの本来の意味は住み込み医という意味です。一般の医師が専門医になるために病院に住み込んで訓練を受けるということです。
私の指導教官のアンドリュー=マクターゲット教授(現在チェルノブイリの放射線事故後の子どものPTSDのケアのためWHOから派遣された医師団の責任者として活躍していらっしゃいます。)は、若い時に、ボルチモアのジョーンズホプキンス大学で、レジデントとして訓練を受けられました。その時の指導教官が、自閉症を最初に報告したレオ=カナーだったのです。レオ=カナーに直接指導を受けたマクターゲット教授が私の指導教官だということに、私はある運命を感じました。
レオ =カナー
レオ =カナーは自閉症で有名ですが、専門は児童精神医学全般です。世界の児童精神医学のパイオニアで、"Child Psychiatry"(児童精神医学)という分厚いバイブルのような著書があります。私もいろいろ教えられました。
あなたがスリープウォーカー目を覚ます場合何が起こる
カナーは、最初は、自閉症の子どもを、小児分裂病(現統合失調症)の最早期の発症型、あるいはその近縁の障害ではないかと考えました。 1943年(昭和18年)の最初の報告では、自閉症児の両親には「冷たい」人が多く、親の責任も原因の一部だとも言いました。最初に報告した11例は、ご両親に知的レベルの非常に高い職業の人が多かったのです。(当時はそういう人たちだけが診療を受けに行ったという事情もあるのですが。)そういう両親から生まれたという遺伝素質と、その上そういう両親に育てられたという環境要因が合わさって発症するのではないか。しかもそれが分裂病圏内の早期、従来考えられていなかった程早く発症する特別なタイプなのではないか。最初はそう思ったのです。けれども、その後、実に明快にその誤りを認めて態度を改めます。
カナーは分裂病の研究に対して最もすぐれた業績をあげた人に贈られる大きな賞を、アメリカ精神医学会からもらうのです。カナーは受賞講演の中で、自分はもはや自閉症は分裂病ではないと思っている。分裂病でないものの研究をして、分裂病の研究で最も大きな業績に対する賞をいただくのは大変辛いと言ったということです。間違いは間違いであると言う、いさぎよさです。
カナーは間違いを一つ一つ訂正して行きました。そういう歴史についても教えられました。
マクターゲット教授が、忘れられないカナーの言葉として、私にも忘れないようにと教えて下さったことがあります。
親や教師は、子どもに対して過剰な期待をしがちである。特に親は、自分の子どもに対する過剰期待の誘惑から逃れることは困難である。しかもそれを子どもの将来を思いやる愛情だと認識している。しかし、過剰期待というものは、子どもには愛情どころか、拒否や否定として伝わるのである。過剰期待は、現状のあなたには満足していないという否定的な言葉や感情を伝えることであり、自己肯定感など決して与えず、むしろ劣等感や自己否定感を与え続けることになる。
治療や教育は、現状を肯定することから始まる。自閉症の子どもだけではなく、全ての子どもについて、カナーはそう言ったのです。
レオ =カナーは他にもたくさん大切なことを言っています。
子どもに本当の愛情が湧くまでは、何もしてはいけない。治療者や教育者は子どもに何かをする前に、自分は心からこの子を愛しているのか、自問自答するように。子どもへの愛情が充分に自分の中に芽生えていなかったら、その手を引くことである。この子を本当に愛していると実感できたら、どうしようかと迷う必要はない。何をしてもそれはほぼ正しいことになる。
名言だと思います。愛情がないのにあれこれすると、こちらの都合のよいことをしてしまう。それが子どもに対して肯定的なことかどうかわからないという戒めです。カナーはこういうことを随所で伝えながらトレーニングをしたということです。
コミュニティケア
カナーの弟子のマクターゲット教授を中心として、何人もの先生からいろいろお教えを受けて、コミュニティケアを学びました。子どもはコミュニティをあげて育てるものである―地域をあげて治療や教育をして行くのだということを徹底して教えられました。
プロセスグループという訓練プログラムを受けました。いろいろな職業の専門家を目指す卵たちが集められます。医者、ナース、教育者、心理士、言語治療士、各職種一人ずつが一つのグループとなります。週に 1回のプログラムで、今週は神経学の教授、次の週は看護婦長、次はソーシャルワーカーというふうに先生が変わって行きます。
そして一人の子どもとその家族の方に協力していただいて、それぞれが、自分の領域からの診断や評価、提供できるサービスについてよく考えるのです。
医者がみるとこの子どもや家族はどう見えるか、ソーシャルワーカーには、心理士には、教育者には、それぞれどう見えるのかということです。診断ないし評価を厳しく問われます。そして自分の領域からこの子どもや家族にできることは何なのか、治療や提供できるサービスをできるだけ詳細に語るのです。
一人の子どもと家族を、今住んでいる地域で、学校や医療機関、その他様々な施設の、どういう人たちが協力しあって、どのようにサポートして行ったらよいか。いつも地域単位で考える訓練です。
この訓練プログラムはなかなか大変でしたが、非常に勉強になりました。自分にできることと、その他の職種にできることとはこんなにも違うのだということがわかったからです。どれが最優先課題かということも議論します。
こういう訓練をしっかり受けることで、一人の子どもやその家族が必要としていることが、あるいは提供できることが、こんなにたくさんあるということを学ぶことができるわけです。そして、自分にできることはそのほんの一部であり、また、自分にできることが最優先課題であるとは限らないということを、徹底して教えられました。
大学は 9月から始まるのですが、訓練は夏休みの7月1日から始まりました。病院の中での訓練はわずかで、殆どは地域社会の中での訓練です。先生の車の助手席にのせられて、どこにどういう施設、どういう機関があるか、どういう専門家がいるかということをしっかり教えられます。協力し合って仕事をすべき人たちだからです。週に3、4日、半日連れ歩かれました。
できるだけ、ファーストネームで呼ばれるほど親しくなりなさい。ドクターササキなどと呼ばれているうちはだめだ。アンドリュー =マクターゲット教授は「ドゥルー」と呼ばれていました。そういうふうに親しくならなければ、コミュニケーションが十分にできない。気持ちを楽にして、てきぱきと協力的な仕事をすることはできないとおっしゃいました。(「マサミ」と平坦に発音することは彼らには難しいのです。"Mas"でどうだ。massは教会のミサ、math数学になる。いい名前じゃないか。ということで、向こうでは"Mas"と呼ばれていました。)
おもしろいことを教授が車の中でおっしゃいました。
町々に住んでいる専門家は、内科に例えれば、薬のリストのようなものである。どの町にどういう専門家がいるのか、どの施設にどういう優れた人がいるか、を知ることは、どこにどういういい薬があるかを知ることである。そして、効き目と共に、副作用も知っておかなければならない。彼はいささか気難しい、彼女はちょっと無責任なところがあるという具合に。いろいろなことを教えて下さいました。
何度も何度もまわって、地図を書いて、どこの町のどの辺にどういう人たちがいるかをメモしました。そういう訓練を 7月から8月、2ヶ月かけて受けました。
国立秩父学園時代(1971〜76)
カナダから帰り、私はコミュニティケアのできるところでの仕事を探したのですが、日本に全くないことがわかりました。当時国立武蔵療養所(現国立精神神経センター武蔵病院)の所長が児童精神科を作ろうとお誘い下さいました。けれども私はこれから作るのではなく、今すぐできるところがいいからと、そちらへは行きませんでした。多くの先輩から、コミュニティケアなど日本にはどこにもない、君の思っているようなことができるところはないのだと言われました。
仕方がないので、子どもさえいればどこでもいいと言いましたら、国立秩父学園を紹介されたのです。子どもがいるところで今医者を求めているところはそこしかないということでした。
それで私は所沢にある国立秩父学園に行きました。当時の言葉で言うと重度精神薄弱児収容施設です。常時 100人前後の子どもがいました。訪問しましたところ、園長先生はとても喜んで下さって、施設を案内して下さいました。1寮、2寮、3寮、4寮と寮舎がありました。お勤め下さいますか?と園長先生は一生懸命おっしゃいます。私もお願いしますと一生懸命申し上げて帰ってまいりました。
2、3日して本格的に勤めを始めましたところ、案内された4つの寮の他にもう一つ「治療棟」というものがあることがわかりました。先日ご案内下さいませんでしたね、と申し上げましたら、「あそこを見せたら逃げられると思いましたから」とおっしゃるのです。びっくりしました。私はそんなつもりは全くありませんでしたが。とりわけ行動障害その他難しい問題があった子どもたちが治療棟というところにおりました。寮舎は全部で5つでした。
厚生省異常行動研究班
当時、異常行動研究班会議というものが厚生省の中に組織されました。全国の子どもの施設で、日常の療育に最も困難を感じる子どもはどういう子どもなのかを調べ、どのような療育をするといいのかを研究することになり、そのための予備調査が私たちの施設に課せられました。国立秩父学園で、指導員や保育者たちが日々の療育に最も困難を感じている子ども5人について、障害の原因あるいは診断名、どんな困難があるか、そして施設ではどういう試みをして来たか、報告リストを作成することになりました。研究費がおり厚生省に報告するという義務を与えられたのです。
常勤の医師は一人もいない施設が圧倒的に多い中、国立秩父学園には常勤の医者が 2人もおりました。そのかわり、全員が大変困難な子どもたちで、敢えて重度精神薄弱児施設という名前がついていました。測定されたIQもしくはDQが30を超えると入れないのです。視覚障害や聴覚障害が非常に重い子どもに限り、IQ50くらいまではよいとされたので、重度重複の子どももかなりいました。
ですから 5人を選んで厚生省に報告するという時に、冗談半分にサイコロを転がして誰にあたってもよいという人がいたくらいです。仕方ありませんから、4つの寮からそれぞれ一人ずつ、治療棟から一人選ぶことになりました。そうすれば各寮20名前後の子どもたちの中から一人、担当の職員から意見をもらって考えやすいですから。
そのようにして選ばれた 5人を見ましたら、全員自閉症だったのです。
当時 112人いた子どものうち、自閉症と診断されていた子どもは12人しかいませんでした。にも関わらず、112人中、最も困難な5人は自閉症だったのです。
自閉症の大変さとは何なのだろう。自閉症とは何なのだろうと考えました。そして同時に厚生省から送られて来た行動障害(当時は異常行動と言いました)のリストをすべての子どもにこつこつあてはめて考えてみようと思ったのです。
居住施設に常勤の医者が 2人おりますと、インフルエンザが流行するなどのよほど特別なことがない限り、医者はそれほど忙しくないのです。私たちは、全部の寮を自由に歩き回れますから、すべての子どもと接することができました。
それで私は、作業といえば作業、散歩といえば散歩と、始終子どもと一緒に移動して生活しておりました。ですからすべての子どもをよく知っておりました。ご家族が全国から年に何回か集まって来られるのですが、(全国対応の施設ですから、北海道から鹿児島までいらっしゃいました)親御さんが面会にお出でになりますと、私たちはゆっくりお話をしたものです。ですからご家族のこともよく知っておりました。
すべての子どもをチェックしたところ、結果は、最も困難がないと判定された子どもたちは、圧倒的にダウン症でした。困難が極端に大きいという子どもが自閉症でした。 1970年代のことです。それ以来私は自閉症とダウン症を対比して考えるようになりました 。ダウン症はよく知られていましたが、自閉症は私たちの知らない未知のものでした。
途中から東大と秩父学園を兼務するようになります。
等張液とは何か
東京大学精神科児童部デイケア時代(1973〜)
外来診療
東大のデイケアでは、みんな一生懸命行動療法に取り組んでいました。けれどもこれも成果をあげるようにはちっとも思えませんでした。それは、偏食の一部が治ったとか、トイレットがちょっと上手になったという程度のことはいろいろあります。けれどもそんなことで本質的な問題が改善するとはどうしても思えませんでした。かといって、もとの受容的心理治療に戻ろうとも全く思えませんでした。それなら他にどんな方法があるのか。ないのです。当時の私たちには手持ちの方法は他になかったのです。
「義務教育」ですから、親には子どもに教育を受けさせる義務があります。就学させないと親の義務違反になります。教育関係側の義務違反ではないのです。こんな理不尽なことをみなさんご存知でしょうか。今からはとても考えられない手続きをしました。自分の子どもはとても教育を受けられるようなレベルではないので、就学を猶予、あるいは免除して下さい。親が怠慢で義務教育を受けさせないのではありません。そういうふうに親が願い出なければいけなかったのです。そして診断書を添えて提出します。私たちはその診断書を書きました。就学猶予、就学免除のお手伝いをしたのです。
日本だけではありません。発達障害の子どもたちの中でも比較的能力の高い子どもたちは、 educable―教育が可能と言われました。少し重い子どもたちはtrainable―訓練なら可能と言われました。重度、最重度といわれた子どもたちはcustodial―保護可能とされました。保護しかないか、多少訓練ができるか、あるいは教育の線に何とかのって行かれるか、こんな分類を欧米でもしていたのです。そういう時代でした。
ダウン症のお子さんの半分くらいeducableと判断されました。東大のデイケアのお子さんたちも就学期を迎え、親御さんが「うちの子は学校に入れます」と飛び上がらんばかりに喜んでいらっしゃって私たちもよかったですね、と喜び合ったものです。残りの半分の子どもは、就学免除あるいは猶予で、このままデイケアでお願いしますということになります。(秩父学園も就学猶予、免除されていた子ども以外は入れませんでした。今はどんな施設に入っていても、そこから学校に行かれますね。当時はそうではありませんでした。ついこのあいだまでそんな時代だったのです。)
そうするとデイケアは簡単にあかなくなります。 15歳になっても、18歳になっても、デイケアにいらっしゃいました。
ですから、新しく希望しておいでになっても入れないのです。入れない方々については、外来でお相手することになります。親御さんのご苦労は大変だと思いました。診療室でみていても、子どもたちはあちこち動き回って飛び出して行ってしまいます。看護婦さんにちょっと子どもをみていて下さいとお願いして、おかあさんの相談相手をしていました。相談の中身たるや、今日から見れば極めて心もとないものでした。それでもおかあさんたちは、ワラをもすがる思いでいらっしゃるのです。何とか励まそうと思っておりました。
そのうち私は、この子たちをちょっとでも預かってくれるところがあればいいと思うようになりました。そうすればおかあさんたちは、そのあいだに休息ができる。命の洗濯ができる。家事その他の仕事ができる。こう思ったのです。あるおかあさんなどは、縛り付けておかなかったら何もできないのですとおっしゃっていました。おかあさんたちはどこへも行かれないのです。 24時間、365日、重い自閉症のお子さんとおうちにいらっしゃるということがどんなことかは、ご想像いただけると思います。
統合保育の試み
それで私はちょっとでも預かってくれるところを探そうと思いました。上等なことは何もしてくれなくてよいのです。第一できるはずがないと思いました。東大のデイケアでみんなが集まって知恵を絞って一生懸命あれこれ取り組んで、それほど成果があがっていない―むしろ成果があるかどうかは疑問でした。ですから、事故なく病気なく、一日のうちに 1時間でも2時間でも、できることなら半日、一日預かって下さったら素晴らしいと、そういうところがないだろうかと考えたのです。
それでまず地元文京区のあたりから幼稚園や保育園をこつこつ歩いて回り始めました。こういうお子さんがいるのです。特別なことは何もして下さらなくていいのです。 教会の人が優しいのではないかと考えまして、教会の幼稚園や保育園をしらみつぶしにあたりました。「お祈りはできますか?」とお聞きになります。「それはできないと思います。その時に走り回ったりしてしまうかもしれません…。」すると、「ではお祈りが終わった時間に来て下さい。」と言って下さったのです。 「午前中ぐらいお預かりしてみましょう。自分たちは素人ですから何もできませんが。」 「事故なく一定の時間預かっていただくことがあれば、どんなにおかあさんは喜ばれるかわかりません。」そう申し上げました。そうしたら預かって下さったのです。
一つでもそういう園が見つかると、あそこの園で預かって下さったら、こんなにおかあさんが喜んでいらっしゃるのですと、その園をだしにして他の園に行くのです。そういうふうに、週に 2、3日は午後や夕方から、セールスをするように近所を歩いておりました。
そうするうちに、預かってくださる園がだんだん増えて来たのです。そうすると、今度は電話でお願いするという味を覚えて、遠くからいらしているご家族のために、遠くの園にも電話でお願いするようになりました。
おかあさんも少しずつ安らいで来られるように見えました。おかあさんが休息できて、ほっとされて、家庭生活が少しでもしやすくなった、そういうことも大きかったかもしれません。きちんと吟味をしたわけではないので、後からみればわかりません。けれどもよくなって行くように見えたのです。それで、これは統合保育はいいのではないかと思ったのです。
デイケアのケース検討会や勉強会で、私たちがあれこれするよりも保育園に預けた方がいいと言いました。大変な反発を受けました。仲間から叱られました。こんなに自分たちが一生懸命いろいろやっても簡単に行かないのに、保育園の保母さんや幼稚園の先生がちょっと預かっただけで、問題が好転したり改善したりなどということがあるはずがない。もともと障害の軽い子だけが、そういうところで何とか預かられているのだ。いろいろなことを言われました。そう言われるとそうかなとも思えてしまいます。それほど東大のデイケアの人たちは一生懸命やっていました。
けれども私は、それでも、何年もずっと見続けていてやはりそう思うと言いました。それからです。私が統合保育、やがて統合教育に希望を持ち始めたのは。敢えて言えば、他によい方法がなかったのです。
小児療育相談センター時代(1976〜1995)
やがて私は小児療育相談センターに転出して行きます。勉強して来たコミュニティケアが実際にできるのです。本当に嬉しかったです。横浜は、コミュニティケアがいろいろな意味でやや進んでいると思います。家族と専門家の連携が良く、地域社会資源をいろいろ利用してお子さんを育てていらっしゃいます。私たちが小児療育相談センターで10年20年、コミュニティケアを整備する努力をして来たことが多少残っていると思います。
小児療育センターに行ったのは1976年―70年代です。そろそろ受容的心理治療に専門家が疑問を持ち、メニンガークリニックが閉鎖を検討し始めていた時代でした。
精神衛生相談室 受容的プレイセラピー
小児療育センターには精神衛生相談室というものがあって、自閉症の人たちは殆ど全てそこに通っていました。心理の人たちはとても優しく受容的プレイセラピーをなさっていました。
私はそれが成果をあげるかどうかについては大いに疑問でした。多少疑問だということはずっと言い続けておりましたが、やめなさいとかだめだとは言いませんでした。相談室の心理の人たちの熱心さには素晴らしいものがあったのです。平井信義先生たちに訓練を受けた人たちでした。お子さんを、家族の方をとても大切にする。並の人にはできない優しさでした。その態度には私はずっと感動しておりました。他に決定的にいい方法があって、プレイセラピーがだめだとわかっていたら、それは所長権限でやめて別の方法をとるように言ったと思いますが、あの優しさは、いらっしゃるお子さんや家族の方には大きなくつろぎだろうと思いました。
統合保育や統合教育について持っていた感覚と同様です。本当に幼稚園や保育園でいい成果をあげているのか、おかあさんの安らぎが家庭生活における安定感をもたらすのか、吟味ができていないのです。精神衛生相談室に通って来た子どもは間違いなくくつろぎます。絶対受容ですから、どんなことをしても受容です。プレイルームから飛び出して診察室に入って来ることもありました。診療台に飛びのろうと、寝そべろうと、何しようとセラピストは、ごめんなさい、ゆるして下さいと私たちに言って、子どもを止めることはしません。診療が中断されることもありました。それほど受容的なセラピーだったのです。本当に熱心でした。当時ベッテルハイムの抄読会などもなさっていました。そんな時代を通り過ぎて来ました。
その後、小児療育センターの心理相談室は、そういう子どもの相談を受けなくなりました。やはり成果はあがらないということを確認して、不登校など、本当の意味での情緒障害の心配のある子どもたちの相談をするようになりました。心理療法で治療が可能な人たちが集まって来るようになって行きました。
統合教育の試み
そういう中で、ある時、安田生命社会事業団から、創立記念のイベントとして事業を組みたいが、何をしたらよいだろうか、と相談されました。それで私は迷わずに、統合保育の映画をお作りになったらどうでしょうかと答えたのです。
東大のデイケアは行動療法です。小児療育相談センター精神衛生相談室は絶対受容のプレイセラピーです。全く相反する方法ですが、どちらを見ても、納得できるような成果に思えませんでした。どちらに対してもある意味でも否定的です。けれども他に方法がありません。そういう中で、統合保育や統合教育にはちょっと灯りが見えたように思ったのです。
そして映画を作ることになりました。どなたにお願いするか。いろいろ調べました。そうしましたら、アッちゃんというお子さんが、武蔵野東幼稚園の統合保育を受け、いい成果をあげられたという話があったのです。アッちゃんは府中第三小学校に入学することになっていました。府中第三小学校には、堀越満枝先生という先生がおいでになったのです。堀越先生は、アッちゃんが入学して来る直前まで、栄ちゃんという自閉症のお子さんの統合教育をなさった方です。栄ちゃんを普通学級の中で 1年から6年まで担任されて、『栄ちゃんはひとりではない』(たいまつ社1974 絶版)というとてもいい教育実践記録を出されました。その本を読ませていただいたのですが、非常に感動的でした。
この先生にアッちゃんを入学の最初からお願いしたら、また素晴らしい教育をして下さるだろうと思って、映画を撮らせていただくよう、働きかけをしたのです。安田生命社会事業団に映像が残っています。『 みんな仲間 』 16mmの映画フィルムですが、最近VTRで借りることもできます。( 『みんな仲間―集団の中の自閉児―』 46分 『みんな仲間 その2―アッちゃんの2年目―』20分 安田生命社会事業団)
決して軽くない自閉症のお子さんが、普通学級に入って、だんだん発達して行く、行動が安定して行く、いろいろなことができるようになって行く、そういうプロセスを追いかけたものです。本当によくなって行かれるように見えました。
感情を制御する方法
最初は教室から飛び出して行きます。堀越先生は素晴らしい先生でした。アッちゃん係りを 2人決められたのです。飛び出して行ったら連れ戻す役です。アッちゃん係りは毎日順番に回って来ます。先生が迎えに行くより、仲間が迎えに行った方がはるかに戻って来やすいのです。身の丈高い大人が強引に連れて行こうとするより、仲間が誘ってくれる方がいいのです。
そのうちにちゃんと教室で席に着くようになりました。みんなと同じにはできませんから、アッちゃんにはアッちゃんだけの課題が与えられました。そのうちに、音楽の時間になると、歌らしいことを、みんなと一緒に歌い始めるようになります。運動会などでも去年に比べて今年はこんなに進歩したといったことがいろいろ見られて来るわけです。やっぱり統合教育はよかったのだと当時は本当に思いました。
ところが、アッちゃんは、その後、十代の終わり頃に家庭生活ができなくなって、とうとう施設に入ってしまうのです。本当にショックでした。小児療育相談センターで何百人の人を見て来ましたが、そのようなかたちで施設にお入りになる方は殆どいらっしゃいませんでした。数年に一人おいでになるかどうかです。その中にアッちゃんが入ってしまったのです。
それで、改めて編集をする前の膨大な量のラッシュフィルムを検討させていただきました。何日も何日も編集室にこもってラッシュフィルムを見ました。 そしてわかったことは、統合教育でうまく行っているという場合のうまさというのは、自閉症の子どもがよくなって行くのではないのだということでした。まわりの子どもたちが、自閉症の子どもとの付き合い方が上手になって行くのです。 最初はこんなことがわからなかったのです。私たちは自閉症の子どもばかり見ていて、ろくにまわりの子どもを見ていないのですから。映像も最初はアッちゃんばかりを追っていました。クリニックでも自閉症のお子さんだけを見ています。
結局、環境がよくなって行ったのです。言ってみれば、構造化がなされたわけです。物理的な構造化だけでなく、人的な構造化がなされたのです。そういうことが、後になってだんだんわかって来ました。 そのうちに、受容的セラピーは、世界から出されるレポートもだんだん消極的になりました。メニンガークリニックの自閉症部門は閉鎖、ブルーノ =ベッテルハイムの施設は後継者さえいないということでした。
英米の自閉症専門学校も、受容的な教育から始めます。けれども、どんなに受容的にセラピューティックに接しても、子どもの本質は、あるいは適応力は変わって行かない。その場にだけは安定していられるが、その他のところで能力を発揮できるようにはちっともなって行かない。そういうことがはっきりして来ました。それどころか、自閉症プラス情緒障害と言われるなど、診断名が増えて行くだけだという厳しいレポートも提出されました。そして、東大のデイケアに遅れる形で行動療法を取り入れるなど、別の教育方法を模索し始めるのです。
よい方法が見つからない中、私は統合保育、統合教育に希望を託していました。当時はお子さんたちがみんなのいい影響を徐々に少しずつ吸収して行くのだなと思ったものでした。けれども、今から思えば、それは、ご家族の安定感、喜び、希望が、家庭生活の中でご両親に力を与えていた、などなどのことでした。
そしてこれは非常に重要なことですが、自閉症の人がある場所で安定できるからと言って、他のところでも安定できるというわけではないということです。毎日同じことを繰り返す場所だったら、そこでは安定できるのです。小児療育相談センターのプレイルームの絶対受容的なプログラムも、いつも同じゲームやおもちゃなど、同じパターンで遊べますから、安定して過ごされたのは当然だったのです。
だんだんそういうことがわかって来ました。 ドーマン法に行かれる方もありました。様々な場で多様な取り組みがなされていました。よいことがあったらぜひ推奨したいと思っていましたが、どれもそれほど大きな成果をあげていませんでした。
就労支援の成功
そういう中で、小児療育相談センターにとても優れたソーシャルワーカーがいらっしゃいました。彼は、ボランティアの弁護士、会計士、税理士を集めて、無料相談会を開き、ギブアンドテイクの形で自閉症者を雇用してもらうという活動を始めました。そして、私が保育園を探した時と同じように、どこかで就労に成功すると、あそこで成功したから、同じ仕事をしているあなたの工場で成功しないはずがないと言って、受け入れ先を広げて行かれました。どんどん改革を進めていらっしゃったのです。
彼の方法は、しばらくの間、職場で自閉症の方につくというものです。今でいうジョブコーチです。当時は「パートナー」と呼んでいました。 1980年代の初めにはそのような形で十分取り組んでいましたから、ジョブコーチを世界で最初にした人かもしれないと思うくらいです。
そのようにして自閉症の方の就労に成功して行きます。自閉症の方にはどのような仕事がどのようにうまく行くのか、私は見守っていました。
TEACCHとの出会い(1982)
そして私たちは TEACCHに出会うことになります。1982年の夏です。大変な衝撃を受けました。
私たちは仕事仲間で自閉症の勉強会をしていました。当時は、日本の研究者は、殆ど全てと言っていいと思いますが、英国を向いていました。英国の自閉症に関する研究は素晴らしいものでした。マイケル =ラターやローナ=ウィングです。自閉症は情緒障害ではなく、認知や言語の障害である。神経心理学的な問題を解明しなければならない。本当にそうだと私も思いました。
認知障害だということがだんだんわかって来た。研究者にとっては大きな関心事です。けれども、勉強会に集まっていたのは、学者ではなく、毎日現場で子どもの治療や教育、保育に携わっている人たちです。それならどうすればいいのか、そう聞かれて、私は答えることができなかったのです。
当時は私も若かったのですが、もっと若い人たちの勉強会でした。私はもっと勉強するように、文献を読んで調べるようにと言われました。私は土曜日の午後から夜までは図書館に入り浸るということを習慣にしていましたが、英国の論文に夢中でした。けれども仲間たちからせがまれて、仕方なく、読みたい英国の論文を読む時間をちょっと割いて、世界の治療教育に関する論文を少しは読むようにしたのです。
そうしたらショプラーに出会ったのです。聞いたこともない人です。アメリカのノースカロライナでいいことをしているらしい。それほど信じないままに、みんなからせがまれるので、こういうのもありますと紹介しました。
そうしたらみんなは、では行こう、と言うのです。私は嫌だと言いました。「アメリカの東海岸だから遠いし高いでしょう…。」「いいと言ったのはあなたではないですか。」「だけどそれほどいいかどうかわからないし・・・。」若い人はエネルギッシュです。ローンを組んでも行こうと言うのです。そう言われては仕方がありません。
勉強に行ってもよいか、見学させてもらえるか、手紙を書くようにと言われました。そうしたらショプラーからすぐに返事が来てしまったのです。今年はギリシャにサマーバケーションに行こうと思っていたのを、予定を変更して待っているから来いというのです。もう行かないわけには行きません 。
そうしたらすごかったのです。こんなにすごい ことをしていてどうしてこんなに控えめな論文しか書かないのですか。私は聞きました。大抵の人は、たいしたこともしないのにたいそうなことを本に書きます。行ってお子さんを預けてご覧になると、何だこれしきのことか、とがっかりしますね。ところが TEACCHは、いまだにTEACCHの本を本格的に書くこともしていないのです。断片的な論文があるだけです。TEACCHに関する本はみんな、外国人が行って見て、驚いて、帰って来て自分の国で書くのです。TEACCHの専門家たちは、自分たちの自閉症の治療教育が大きな成果をあげているなどとは、ごく近年まで言いませんでした。
本格的に訪問したのは私たちが最初です。外国人に自分たちのやっていることが承認されて大変自信になりました、とショプラーは言ったのです! 私たちは興奮しました。よかった。ちっとも高くなかった。みんな口々に言いました。 何がよかったか。自閉症の人に環境を合わせるのです。目から鱗が落ちました。私たちは自分たちに自閉症の人を合わせようとしていたのです。
統合教育も同じです。一般の子どもと少しでも同じようになって欲しいという発想でした。けれども TEACCHを見てから統合教育を反省してみますと、成果があがったのは、他の子どもが自閉症の子どもに合わせたからなのです。周囲の子どもたちが変わって行くにつれて、自閉症の子どもはそこでの適応がよくなって行ったのです。
けれども日本の統合教育はそこまででした。自閉症の子どもに合わせているまわりの子どもがいなくなってしまったら―構造化をはずしてしまったら、もうだめなのです。家庭に帰ったらだめ、地域社会ではだめだったのです。自閉症の子どもに本当の意味で能力を発揮させていなかったのです。
また、 行動療法のように何かをがんがんやらせようとしても本当の意味で は身につかないのです。能力を発揮させることにはならないのです。
本当にTEACCHで教えられました。
自閉症の特性に合わせた構造化
自閉症の人の特性の一つに、視覚的にものごとを学習して行く( visual learner)ということがあります。そういう特性に合わせた環境の構造化が視覚的構造化(visual structuring)です。数年前、ショプラーにどういうプログラムから視覚的構造化ということを考えついたのか聞きましたら、大学院の学生の時から知っていたと答えました。大勢の自閉症の子どもたちに会って、この子たちは聴覚情報より視覚情報の処理の方がうまいということに気がついたということです。ずっとアイデアをあたためていて、ノースカロライナに来て実行するのです。
言うなれば、これは 自閉症の人たちと私たちのバリアフリーを図る方法なのです。例えば、目の不自由な人のためには点字ブロックを作ります。車椅子を利用する人のためには段差をなくしてスロープにします。物理的構造化です。環境を活用しやすいように手直ししてバリアをなくして行くのです。
そしてシングルフォーカスという特性です。自閉症のドナ =ウィリアムズさんは、モノトラックという表現をなさいました。同時にいくつもの情報を捉えることをしない、あるいはできない。いつも一つのことにしか焦点があたらない。ですから、今は何に焦点をあてればよいかをはっきり示してあげれば、彼らは安定して集中して学ぶことができるのです。ところが、あれもこれもいろいろな情報が一度に飛び込んで来たり、どれに焦点をあわせてよいかわからない状態におかれるので、不適応を起こしてしまうのです。
高機能の場合、自分で構造化するという能力が身についてくれば、援助の手を減らして行くことはできます。それでも絶えずいろいろな応援やサポートは必要です。 自閉症ではありませんが、先日サリ =ソルデンさんが来日なさいました。" Women with Attention Deficit Disorder "(邦訳:『片づけられない女たち』 WAVE出版2000)という本をお書きになっている非常に能力の高いADDの方です。彼女でさえ、自分は生活を毎日構造化していなければ不適応を起こしてしまう、混乱してしまうと、はっきりおっしゃっていました。
それぞれの機能レベルに合わせて、私たちは構造化を手伝ってあげなければなりません。例えば、パワフルな電動車椅子であればかなり急勾配のスロープでも平気です。けれどもそうでない場合は、斜面はゆるやかでないと困るのです。そういうことを自閉症の人にはどのようにしたらよいかということです。
それから、自閉症の人とはどんなことがあっても意味のあるコミュニケーションをすることです。「愛情を伝える」などという曖昧なことでは自閉症の人は安定しません。なぜかというと、彼らは見えない情報に意味を捉えることがとても困難だからです。相手が何を感じているかを感じ取ることが困難なのが自閉症なのです。ふいにぶたれれば、その人に怯えるようになるでしょう。けれども、優しさや思いやりをいくら持ち寄っても、ただ持っているだけでは、自閉症の人が安定して自己実現を図ることができるようには全くなって行かないのです。絶対受容のプレイセラピーをいくらやっても、それはそこでは一見安定しているように見えたというだけで、その域を出なかったのです。
いろいろな環境で自分の力で自立して生きて行くことができるように、アイデアを使って、その人に必要な構造化をする。 いらなくなった部分ははずしてもいいでしょう。本人に合わせて工夫を重ね、どんどん生活圏を広げて行くの です。
意味のあるコミュニケーションというのは、人間関係だけではありません。環境の意味を伝えるということについても同様なのです。普段私たちは広い意味で環境とコミュニケーションをしているのです。結婚式とお葬式では、同じように大勢人が集まっていますが、全然違った行動をとりますね。その場の環境とコミュニケーションをしながら行動を調整するわけです。私たちは服装も考えます。衣服で自分の意思を相手に対して表すのです。これもコミュニケーションです。
実は、私たちも、小児療育相談センターで自閉症の人たちの就労援助に取り組んでいた時に、工場や会社にこういうアイデアをちゃんと伝えていたのです。就労の安定のためのアイデアは、環境の構造化であり、シングルフォーカスという特性をふまえた配慮だったのです。ある事柄にだけ注目すれば、後のことは何も考えなくていいような設定にする。あるいは他のものは取り除く。そうすると、この人たちは作業の成果がどんどんあがるのだということに気づいていたわけです。
実は、私たちも、小児療育相談センターで自閉症の人たちの就労援助に取り組んでいた時に、工場や会社にこういうアイデアをちゃんと伝えていたのです。就労の安定のためのアイデアは、環境の構造化であり、シングルフォーカスという特性をふまえた配慮だったのです。ある事柄にだけ注目すれば、後のことは何も考えなくていいような設定にする。あるいは他のものは取り除く。そうすると、この人たちは作業の成果がどんどんあがるのだということに気づいていたわけです。
親の会との学習会
小児療育相談センターにいた 20年の間、横浜の自閉症親の会の方々とほぼ毎月のように勉強会をしました。おかあさんたちがよい施設を作りたいと立ち上がられました。応援いたしました。 私は、親の会で施設をお作りになる時に、一人の家族が百万円も二百万円も出すということはなさらない方がいいと申し上げました。細々とでもみんなで集めて、そして行政やいろいろなところの寄付を集めておやりになるのがいいと申し上げたのです。お金をたくさん出した人やたくさん活動した人から施設を利用されるのではなく、困っている方から利用する。こういう方針を貫かれるといいですよと申し上げました。自閉症の人がどういう施設を望んでいるのかということを、勉強会で学び続けました。 おかあさんたちはバザーを開かれました。おとうさんが大きな衣料メーカーにお勤めの方がいらして、半端ものを安く卸して下さいました。私も子どもの成長期ずっと利用させていただきました。
東やまた工房の誕生と成功
横浜市の協力がありました。 TEACCHモデルで行きましょう。横浜市は職員を何ヶ月も前から雇用して下さいました。その間に勉強会をしました。『東やまた工房』は通所更生施設です。成功したと思います。次いで入所更生施設ができて、グループホームができました。そして、各地でいろいろ困難を極められた地域作業所を譲り受け、TEACCHのアイデアで活性化、活気をもたらしたのです。
入所施設『東やまたレジデンス』はとてもいい設計がされました。希望したとおりの設計を横浜市はそのまま承認してくれたそうです。すべて個室です。そして団欒する共通のスペースもあります。しかも 40人の施設ですが、あたかも数名ずつが生活しているかのように上手に設計されているのです。とても家族的にできています。東京都の建築のフェスティバルで、福祉施設で初めて入賞、特別賞をいただきました。建築で福祉施設が入賞するなど、それまでは考えられませんでした。ある意味で、福祉施設はそれだけ粗末に考えられていたのです。
こうして定員 40人でオープンしました。私は、それとなく数名ずつゆっくり入っていただいて、慣れたら次の数名というようにしたらどうですか、と言ったのですが、いいえ、だいじょうぶです。みんな一度に入っていただきますと言われました。
オープンの日、 40名のうち38名の方がいらっしゃいました。お二人の方はご家族のご都合で、1週間遅れて入っていらっしゃいましたが、何の混乱もありませんでした。穏やかな方を選んだのではないのです。むしろ逆です。横浜市からは、設計その他、希望通りに施設を作ったかわりに、利用については市が希望する方から入れて欲しいと言われました。ですからみなさん他の施設に適応しなかった困難な方たちです。けれどもあっという間に安定されました。
県の職員の方が研修にいらっしゃいました。他の施設の職員研修も受け持っています。優れた施設は優れたアイデアと方法を持っているのです。 自閉症の人をよく理解することです。意味のあるコミュニケーションを大切にするのです。どうすれば意味が通じるか、どうやって意味を伝えてもらうかということです。
このことをしっかり考える地域センターができました。これに呼応して内山先生たちがクリニックをお開きになったのです。最初は『横浜やまびこの会』の中に診療所をということでしたが、社会福祉法人の中で医療機関を運営することは難しいということがわかり、それで内山先生が独立される形でクリニックをおつくりになりました。 みんな連動して発展して行ったのです。素晴らしいことです。最初は親の会から始まりました。親御さんたちのお力です。
県立誕生寺養護学校TEACCHプログラムの成果
これにならって、私は勤務している大学のある倉敷で保護者の方との勉強会を始めました。もう何年にもなります。一年ほど前からは職業者との勉強会を始めました。おかあさんたちとの勉強会は午前中です。職業者との勉強会は夜です。
その中で、県立誕生寺養護学校が TEACCHプログラムを始め、素晴らしい成果をあげられるようになりました。TEACCHモデルを県立の養護学校が採用するようになったのです。日本の各地でTEACCHモデルがたくさん応用されるようになりましたが、殆どは特殊学級です。なぜかというと、先生が一人か二人合意すればできるからです。また国立の教育大学の付属養護学校にもTEACCHモデルを使って大きな成果をあげているところはあります。一つにはやはり規模が小さいからできるのです。県立の養護学校にはとても少ないと思います。県立の養護学校は先生が大勢いらして、いろいろな考えをお持ちなので、非常に難しいのです。
岡山県立誕生寺養護学校では、小学部から本格的に始めましたが、先生ご自身と、生徒を通わせているご両親がその成果に驚いていらっしゃいます。そしてその試みを何回か市民の前で発表して、大きな感動を与えました。 いろいろな学校にどんどん広がって行くかというと、そうは簡単には行きません。けれどもそういう動きがようやく出てまいりました。だんだん成果をあげるとはこういうことだということがわかって来ると思います。
『コミュニティカレッジ倉敷』は地域の中でおかあさんたちと一握りの専門家が集まって開いた TEACCHモデルの教室です。
こんなふうなことが、私が歩んで来た道の中にあるのですが、ほんの一言、最後に補足的なことを申し上げておきます。 TEACCHモデルはいまや世界的なモデルになりました。2000年の春、国立特殊教育総合研究所が特殊教育普及セミナーに、ショプラーを招きました。文部省が初めてTEACCHを招いたのです。
厚生労働省は、今年になって、日本の各地に 8ヵ所くらいの自閉症センターを設けたいとしています。施設その他に対して、一律に補助することは今後はやめ、成果をあげているところに重点的に補助をする方針をとるということで、TEACCHを非常に評価しています。少なくとも利用者の家族が評価しているところは殆どTEACCHモデルであるということを、厚生労働省は認識し始めたようです。 学校でも治療機関でも、そこの職員がよいと言っているのではだめなのです。そこを利用していらっしゃる方が素晴らしいとおっしゃることに意味があるのです。懇話会が始まりました。
知的障害者福祉協会(旧知的障害者愛護協会)の全国大会に、今年、初めてお招きを受けました。 TEACCHについての話をするようにということです。全国の知的障害者の支援の会の人たちがやっとこちらを向いてくれたという思いでいます。すでにTEACCHを取り入れていらっしゃるところはたくさんありますが、全国規模で招かれたことは初めてです。
1998年には、全国情緒障害教育研究大会でも初めて、情緒障害学級(自閉症教室)の先生たちの勉強会にお招きを受けました。
1982年の夏にノースカロライナを訪問してから、来年の夏にちょうど20年になります。それを機に、日本の各地で専門家たちが―先生、福祉施設の方、様々な方々が地域で相当幅広く取り組みをされるようになりました。成果をみんなで確かめ合う、こういう会を一度もちたいと思っています。その会は、できればどなたにも公開したと思います。初めて来年の夏にと思っています。朝日新聞厚生文化事業団の協力も得られそうですので、いずれ開催のご通知も差し上げられるかと思っています。
まだこれからです。 TEACCHに出会うまでの十数年、試行錯誤をしました。統合教育は実際には本当の意味での成果はあげませんでした。そんな安易なものではありませんでした。自閉症の人に合わせた教育でなければなりません。こちらが自閉症の人に合わせてその人が適応して行く筋道を作り上げて行くのです。どこの床屋さんを利用するといいですよ。その床屋さんはこういうふうに利用するといいのですよ。どこのスーパーマーケットを、レストランを、スポーツセンターを―どの町をどのように利用するかということを、しっかりきちんとその人に合わせて教えて行く。TEACCHモデルは、こういうことを、実に見事にやってのけます。
自閉症の人は自分に合わせてもらった教育でないと、力を発揮できません。こちらに合わせなさいという発想ではまずだめだということだけでも、心の中においていただいたらいいなと思います。その人にどのような合わせ方をするのかということは、一歩踏み込んだことになりますが、それは後日、ゆっくりお話できればと思っています。今日は私のヒストリーを私なりに語るということでおゆるしをいただきたいと思います。
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